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「道楽と職業」要約と感想 ー 「好きなことで生きていく」を考えるメモ

「道楽と職業」の要約。

漱石は、他人のためにすることを職業、自分ためにすることを道楽、としている。 職業とは、他人のためにすることである。「他人のため」とはすなわち、他人の欲望を満たすことであり、一方、道楽とは、自分のためにすることである。 人は職業を通じて得た対価を用いて、自分の欲望を満たす。自分が食うためには他人のために何かしらをする必要がある、ということだ。

職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。

職業は、基本的に他人のために自分が何かをする、という意味で他人本位である。しかし、中には他人本位では成立しない職業がある。科学者・哲学者・芸術家である。

哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠こもって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。


それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向くらしむきの助けになるだろうと傍はたの者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略さりゃくはない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。 ただ、ここにどうしても他人本位では成立しない職業がある

科学者や哲学者は、「他人のために何かをして、それで対価を得る」という職業の原理ではなく、政府の保護によって食い扶持を得ることで成立している職業である。また芸術家に関しては、自分の内面を表現・表出するのが芸術であるため、芸術家が「他人本位」になった瞬間、それは芸術家ではなくなる。

漱石は、職業の原理を一通り説明した後で、その例外として「科学者」「哲学者」「芸術家」をあげ、実は、自分もまた ”偶然” その例外の一人あることを述べる。

私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支さしつかえないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短かに云えば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌ごきげんを取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。もしこれが天てんから人のためばかりの職業であって、根本的に己を枉まげて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。幸いにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬、(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押して来たのである。いくら考えても偶然の結果である。

以上が、道楽と職業のメインのあらすじである。「職業の原理」が単純明快かつわかりやすく説明されている。

職業とは、他人の欲望を満たすことであり、生きていくには、職業で対価を得ないといけない。 自分の好きなことだけして生きていけるのは、ほんの一握りの例外だけである、ということだ。

さて、ここから本論。昨今流行りな「好きなことを仕事にする」を考えてみたい。

「職業と道楽」の最後で、漱石は自分は "偶然" 自分が職業の原理から外れ、自己本位で生きられる例外の一人であると述べているが、私が思うに、それは決して偶然ではない。

偶然ではなく、漱石は知らず知らずのうちに、自己本位に生きるための、自分の好きなことで食うための、方法を実践していただけである(もちろん漱石の才能が凄まじいというのもあるが、それはさておき)。

自分の好きなことで食うためには、以下の3つの条件を満たす必要がある。

  1. 自分の好きなことをコンテンツにする。
  2. それをメディアにのせ、不特定多数の人に発信する。
  3. 不特定多数の人から、コンテンツに対する対価を得る。

漱石の場合は、

  1. 文学作品を執筆し、
    (自分の好きなことをコンテンツにする)

  2. 作品を新聞社や出版社を通じて大衆に発表し、
    (メディアを用いて不特定多数の人に発信する)

  3. 新聞社や出版社から給料をもらっていた。
    (不特定多数の人から、コンテンツに対する対価を得る。漱石の場合は、大衆→出版社→漱石、で対価の流れに出版社が間に入っている)

という形で、まさしく自分の好きなことで食う条件を満たしていたのである。

漱石の時代(そしてつい最近の時代まで)、好きなことで生きることが難しかったのは、 特に、2と3の条件を満たすことが難しかったからである。 自分の好きなことを発信する手段が限定的であり、発信できたとしても空間的(そして時間的にも)にも限界があったからである。

しかし、時代は変わった。テクノロジーが、人々に時間的・空間的制限を乗り越える力を与えた。 そして今から、また大きな変化が起きる。

今、自分の好きなことで、生きている人が、少しずつだが社会に登場している。 ブロガー、youtuber、インスタグラマー、中にはコンビニアイスの評論で生活の糧を得ている人もいる。

www.youtube.com

Youtubeのスクリーンの向こう側には、世界中の何億っていう人がいて、いきなり自分にチャンスがやってきたりします。(HIKAKIN)

このHIKAKINさんの一言は、好きなことで生きていくことための、本質を捉えている。

インターネットの登場が、好きなことで生きていくための2番目の条件を満たすことを可能にした。

インターネットにより、人は、時間的・空間的制約を超えて、世界中の人と繋がれるようになった。情報をやりとりできるようになった。 自分の好きなことを、世界中の70億人に発信できるようになったのである(70億人にどうリーチするか。70奥人全員がどうネット環境にリーチするか、はまた別問題としてあるが)

ただ、「自分の好きなことで生きている」らしいYoutuberやブロガーも、まだ、123全部の条件を完璧に満たせているわけじゃない。動画再生数や記事閲覧数から生じる広告収入がメインの収入源なので、自分の作るコンテンツにある程度の制限(バズ対策・SEO対策とか?)がかかるし、収入源も広告主or広告プラットフォームに握られている(視聴単価やクリック単価が下がると打撃を受ける)。

そこで出てくるのが、ブロックチェーン技術に基づいたビットコインである。

・インターネット
時間的・空間的制約を超えて、世界中の人と繋がられる
時間的・空間的制約を超えて、情報をやりとりできる

ブロックチェーン(というかビットコイン
時間的・空間的制約を超えて、価値(お金)をやりとりできる

ビットコインと、ビットコインを用いてお金をやりとりする仕組みがコンテンツと紐付けば(投げ銭システム)、より純粋な形で自分の好きなことでお金をもらえるようになりそう(ちなみに、現行のフィンテック的なやつでもネットでお金のやりとりができるが、それじゃ不十分。ブロックチェーンビットコイン)とは仕組みが全く違う。フィンテックだとコストがかかりすぎる。らしい。詳しくないので深入りしない。)

単純な例でいうと、自分の趣味をコンテンツにしネットで70億人に配信。そのうち0.0001%の人がコンテンツに1円出してくれれば、それだけ70万。コンテンツはネット上に半永続的に残り投げ銭を呼び続ける。

そんなこんなで、自分の好きなことで食える人は増えるよね、という話でした。

まとめはこちら

nskkr.hatenadiary.com