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「私の個人主義」要約と感想 ー 自分の人生を「自己本位」に生きるための漱石からの助言

私の個人主義 (講談社学術文庫)

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今年は夏目漱石生誕150周年、没後100年にあたる年だそうだ。

日本近代を代表する小説家、夏目漱石が世代を超えて多くの人から愛されるのは、 彼の言葉が現代を生きる私たちに、人生のヒントや励ましを与えてくれるからだと思う。

「私の個人主義」は、自分にとって、非常に大事な本の一つで、 学生時代、就活中、就職後、退職前、転職後...節目節目で何度も繰り返し読んでは勇気付けられている。 自分の人生、どこに行けばいいのか、今のままでいいのか、今後どうすればいいのか、 日々もやもやと重い気持ちを抱えている若い人に、おすすめの一冊。

「私の個人主義」は、漱石が亡くなる2年前の大正3年(1914年)に、 学習院の学生に向けて講演された内容をまとめたもので、大きく前半部と後半部に分かれる。

前半部では、文学とは何か、自分の進むべきはどこなのか、長い間わからず苦しんだ漱石が、 「自己本位」という言葉を手に入れて、自分の人生を生きるまでの半生が語られる。

後半部では、 「自由」と「義務」、「自由」と「道徳」について語られる。 自分の個性が最大限発揮され、自由に生きるときには、 自分以外の他者の個性や自由を尊重しなければいけないということが 権力や金力の話を交えながら語られる。

前半と後半、合わせてこの「私の個人主義」という本は素晴らしいのだけれど、 私が特に好きなのは、前半部だ。

いかに漱石が苦悩を乗り越えて「自己本位」にたどり着いたのか、 前半部には、現代に生きる私たちにとっても大きなヒントがある。

漱石の苦悩は、学生時代に始まる。 自分の専門する英文学の解らなさ、なぜ解らないのかも、解らない、というような 状況から、漱石の苦悩が始まる。

私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋たずねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。(…中略…)とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶はんもんは第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。

そして、社会に出て教師として働く中で、その苦悩は深い煩悶に変わっていく。 英文学だけでなく、自分の人生、どこへ向かっていくべきなのか。深みにはまっていく。

腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮にえ切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪まらないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。(…中略…)私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦くんでしまったのです。(…中略…)私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥抜ぬいたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

イギリス留学中も漱石は煩悶する。しかし漱石は気づく。「文学とは何か」という問いに対して、 自分の血肉足らない他者の考えや意見だけでは、その答えにたどり着けないのだ、と。 「文学とは何か」という問いは、自分で考え、自分で答えを見つける以外に、明らかにする道はないのだと、漱石は悟る。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟さとったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。

この気づきを経て漱石は、「自己本位」という言葉と、自分の人生の事業を見つけることになる。 文章から自信と気迫めいたものを感じる。

しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考と矛盾してはどうも普通の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含くまれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇には一道の光明を投げ与あたえる事ができる。――こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ遅おそまきの話で慚愧の至いたりでありますけれども、事実だから偽らないところを申し上げるのです。

 

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼かれら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

この経験を通じて、漱石学習院の学生に語ったことは、今を生きる私たちにも響くメッセージだと思う。漱石は学生にこう語りかける。

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫さけび出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄もやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払はらっても、ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。(…中略…)もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙だまっていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いだいてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。(…中略…)だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。

長い間「鈍痛」にゆっくりと弱らされていた漱石が、 「自己本位」を手にして奮起する気概が、文章を通じて迫力と共に伝わってくる。 同時に、同じ道を行くかもしれない私たちを案じ過去の経験を語るところに、暖かさを感じられる。

世の中に、心に煮え切らない何かを抱えて生きている人は少ないくないと思う。 中には、そういう気持ちすら、消え失せてしまった人もいるかもしれない。

もしあなたが、苦悩の中にいる、自分の人生に煩悶しているならば、 まだそこから抜け出したいという気持ちがあることのしるし、なのだ。

自分の人生にモヤモヤしてる若い人は、ぜひ読んでほしい。


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こちらもとてもオススメです。 30歳になった筆者の方が、ふと中学時代に習った「私の個人主義」のことを思い出し、 当時の恩師と連絡を取り、国語について、進路について、生き様についてお話されたそうです。

以下少し抜粋。

夏目漱石の『私の個人主義』は 今でも中学3年生の教材として扱っています。 今だから言いますが、 『私の個人主義』を通して感じてほしいことは、 次の二つです。
①自分の進路を決めるのは思いのほか苦しい。
②自分の頭で考えて、自分なりの社会観を養ってほしい。
(・・・中略・・・)
日本の近代は欧米諸国の「マネ」から 始まったわけですが、 漱石は欧米の「マネ」をしている人々を 痛烈に批判します。 「そろそろモノマネはやめて自分の頭で考えろよ」と。 これは今の時代にも通じる、とても大事な考え方です。
(参照:「15年ぶりの国語の授業。『第3回 国語は想像力を鍛える。』」より)

最後の「マネ」のくだりはまさしくという感じでした。 人の真似や、価値観や、作られた道の上を歩くのでなく、自分の頭で考えて自分の道を生きる。 本当に、漱石のメッセージは現代に生きていると改めて思った次第です。

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