フェアトレードを考えるメモ
【搾取に関して】
不当な状態(労働環境・低賃金etc)に置かれた際に、他の選択をできるか否か、すなわち「選択可能性」の有無が問題の本質なのかなと思っています。
「選択可能性」は、ざっくり以下のように分類できて、
・個人(農民)内部の要因
(1) 技能がない(から、他の選択肢を選択できない)
(2) 情報がない(から、他の選択肢が有ることを知らず、選択できない)
・外部の要因
(3) 他に選択肢(職)が存在しない(から、他の選択肢を選択できない)
(4) 職業選択の自由がない(から、他の選択肢を選択できない)(ex: 強制労働)
「選択可能性」が無い場合に、搾取されやすくなる。
農民のケースでいうと、この「選択可能性」は本来、その国・行政が保証しているケースが多いのですが、 (ex:技能→教育・、情報→教育・情報インフラ、職→経済政策・ルールづくり・産業振興、職業選択の自由→憲法・法律 etc..) 一次産品を生産する途上国は、国がそれらを完全に保証できないケースが多く、批判の矛先が、一次産品の最終加工者(?)のスタバに向けられているような。
ただ、とは言いつつ、企業が企業活動を行う上で、ステークホルダー全員が幸せであるべき。 インターネット等の技術で、いろんなものが可視化・拡散されやすくなり、今まで影に隠れていた「搾取」が明るみにでやすくなって (明るみになったからこそ、みんな気にする様になり、エシカル消費とかも生まれてきて)いろんな企業が、ちゃんと農民含め各ステークホルダーが不当な扱いを受けていないかなど気にする様になったのかなと。 (企業イメージ・ブランド管理)
日本のブラック企業なんかも、同じ構造かもしれません。
【一次産品のトレードに関して】
「一次産品を安く買って、高い利益を得ているのに農民に還元していない!」的な意見が有る様な気がするのですが(スタバは儲けてるけど、農民は安い給料で働いている、的な) 企業が生み出す高い利益は、原価を低くすることによって生み出している、というよりも高い付加価値をつけているから生み出されている訳で、この意見は少し違う様な気もしています。
(スタバはコーヒーを提供していますが、それ以上に、空間・カフェで過ごす時間・ブランドetcetcの付加価値を提供しているからこそ、コーヒー1杯が400円とかで売れる。)
一次産品生産国が、一次産品の生産のみしかできず、より高付加価値のものを作れないという構造は、問題な気がします。(言うなれば、これも「選択可能性」が無い)
「バッタを倒しにアフリカへ」あらすじと感想
バッタを倒しにアフリカへ
一人のバッタ博士がアフリカでバッタと、いや人生と格闘する話。本屋で偶然手に取り読んだ本だが、めちゃめちゃ面白い本だった。読売文学賞、中央公論・新書大賞、絲山賞受賞を受賞した作品。
あらすじ
著者は、昆虫学者への憧れとバッタへの狂気的な愛を持つ一方、今後の研究者としての身の振り方に悩む若きバッタ大好きのポスドク。彼は、自分の人生を切り開くため、また農作物を食い荒らし国を荒廃させるバッタを退治するために、単身アフリカ・モーリタニアへ渡る。彼は、待ち受ける数々の困難を、情熱と努力と創意工夫、そして何もりも、人との出会いで乗り越えて行く。「神の罰」と恐れられるバッタたちを、彼は倒すことができるのか。若き昆虫学者の奮闘を綴った一冊。
前野 ウルド 浩太郎(まえの・うるど・こうたろう)さんに関して
昆虫学者(通称:バッタ博士)。
1980年秋田県生まれ。国立研究開発法人 国際農林水産業研究センター研究員。神戸大学大学院自然科学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学白眉センター特定助教を経て、現職。アフリカで大発生し、農作物を食い荒らすサバクトビバッタの防除技術の開発に従事。モーリタニアでの研究活動が認められ、現地のミドルネーム「ウルド(○○の子孫の意)」を授かる。著書に、第4回いける本大賞を受賞した『孤独なバッタが群れるとき――サバクトビバッタの相変異と大発生』(東海大学出版部)がある。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)
PRESIDENT Online「前野ウルド浩太郎」記事一覧
TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」前野ウルド浩太郎×荻上チキ
バッタ大好きで、昆虫博士になるのが夢だそう。でもバッタ触りすぎてバッタアレルギーになってしまった、という序盤のくだりから笑える。笑。
感想
とにかく笑いながらスイスイ読める
とにかく、言い回しが面白い。新書にしては厚めな本なのだが、スイスイ読める。
ティジャニはスピード狂だった。目の前に立ちはだかる遅い車には、容赦なくクラクションを浴びせ、モーゼのごとく進路を開いていく。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)
いきなりモーゼ出てきてワロタ。こういう細かい笑える言い回しが随所に散りばめられていて、テンポよく読み進めることができる。ティジャニは現地での移動・その他生活諸々をサポートしてくれているモーリタニア人の相棒。
もともとは微糖派だったが、朝飯初日、手元に砂糖がなかったのでブラックで飲んだところ、ティジャニが「コーヒーに砂糖を入れずに飲むなんて信じられない」と尊敬のまなざしで私を拝んできた。なので、その日以降、大人の威厳を見せつけるために、コーヒーはブラックで飲むことにした。新しい環境に来たので、舐められてはいけない。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)
ティジャニとの関係も笑えて楽しい。
私とティジャニが通訳なしでずっと一緒にいることに、研究所の誰しもが不思議に思っていた。急速に意思の疎通ができるようになった仕組みはこうだ。一つの単語に複数の意味を持たせて使い回していたのだ。 例えば「ファティゲ」。これは「疲れた」という意味で使われている。 「車がファティゲ」。これはガソリンがなくなりつつあることを意味する。 「頭がファティゲ」。これは悩み事があって心労したときに使う場合と、ハゲを意味する場合がある。「頭がファティゲなモハメッド」など人物を特定するときに便利だ。 「腹がファティゲ」。これは食べ過ぎてお腹いっぱいを意味する。 また、「超」をつけたい場合は「ボク」を使う。「ボクファティゲ」。これは「疲れたがたくさん」、すなわち「超疲れた」となる。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)
ティジャニは英語が話せない。ファティゲのくだりは、移動中の電車で声出して笑った。笑。
そうこうスイスイ読んでいるうちに、サバクトビバッタの生態からモーリタニアの生活・文化、はたまた研究者の苦悩から東北弁の雑学まで、様々ものを垣間見ることができる。
サバクトビバッタとは
著者が研究の対象としているサバクトビバッタは、アフリカの半砂漠地帯に生息し、しばしば大発生して農業に甚大な被害を及ぼす。時に国を脅かすため、バッタの大発生は、「神の罪」として恐れられている。
私が研究しているサバクトビバッタは、アフリカの半砂漠地帯に生息し、しばしば大発生して農業に甚大な被害を及ぼす。その被害は聖書やコーランにも記され、ひとたび大発生すると、数百億匹が群れ、天地を覆いつくし、東京都くらいの広さの土地がすっぽりとバッタに覆い尽くされる。農作物のみならず緑という緑を食い尽くし、成虫は風に乗ると一日に100 km 以上移動するため、被害は一気に拡大する。地球上の陸地面積の 20%がこのバッタの被害に遭い、年間の被害総額は西アフリカだけで400億円以上にも及び、アフリカの貧困に拍車をかける一因となっている。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)ちなみに、バッタとイナゴは相変異を示すか示さないかで区別されている。相変異を示すものがバッタ(Locust)、示さないものがイナゴ(Grasshopper)と呼ばれる。日本では、オンブバッタやショウリョウバッタなどと呼ばれるが、厳密にはイナゴの仲間である。Locustの由来はラテン語の「焼野原」だ。彼らが過ぎ去った後は、緑という緑が全て消えることからきている。
(出典元:「バッタを倒しにアフリカへ」講談社新書)
日本にいると、バッタはなんとなく小さくて可愛いようなイメージだが、砂漠地帯ではこんなに恐ろしい存在だとは。
この本の魅力
この本の魅力は、著者が自分の夢に向かって、好きなことに邁進するその姿にある。また、その夢に向かう途中で、たくさんの素晴らしい人々と出会っていくところも、大きな魅力の一つ。読み進めるたびに、筆者の姿勢や、人との出会いに、心が揺さぶられる。読後は、本気で夢に向かうことの素晴らしさを感じられる。
若い人なんかには特にオススメの一冊。バッタに興味なくても、楽しく読めて、かつ心に残るものが多い一冊。
毎日ブログを書く
って、大変だけど、とても良いことだと感じている。
思考の整理ができる
書くネタを探すために、物事への感度が高まる
毎日書くので、毎日ストックされていく
次第に書くのに慣れてくる(文章力が上がる)
楽しい
何事も、やるときは
一番参考になる人のやり方をパクる
質より量で数をこなしまくる
のが大事ですね。イケダハヤトさんの教科書面白かった。
魚を与えるのではなく釣り方を教えよ
「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」
という言葉がある。
この言葉は様々なフィールドで使われるが、途上国支援の分野でもよく聞く。
途上国支援の分野でこの言葉を耳にする際、こんな言葉はクソくらえだといつも思う。
この言葉からは、思い込みと奢りを感じる。
一つめは、「相手は釣り方を知らない」という思い込み。
二つめは、「自分は釣り方を知っている」奢り。
前者の思い込みに関して。
その国や地域のことに一番詳しい人は、無論その国や地域に住んでいる人であって、外様の人間ではない。
現地の人間は、魚の釣り方を知っている。
何故なら彼らは今まで(数は十分ではないかもしれないが)魚を釣って生きてきたはずだからだ。
ただ、釣り方を知っていても、十分に釣ることが出来ない、その土地特有の「何かしらの理由」がある。
それは、「政治」「経済」「外交」「文化」「慣習」「歴史」「地理」「宗教」...、色々あるし、色々の組み合わせである。
彼らは、釣り方を知っている。
ただ、それが何らかの理由で阻害されているだけである。
後者の奢りに関して。
「自分が釣り方を知っている」し「その釣り方が正しい」と思い込んでいる場合は特に厄介。
その土地特有の「何かしらの理由」を無視して、外様の釣り方を教えたところで、それは何の役にも立たない。
役に立たないならまだいいが、「その釣り方が正しい」と思い込んでいる人に、その釣り方を強引に押し付けられるとそれは迷惑である。
1950s~2000年代にわたる途上国(特にアフリカ)への欧米諸国の支援は、まさにそんな思い込みと奢りが感じられる。
「腹が減ったら今ある魚を分けて食って、釣り方は一緒に考えよう」くらいのスタンスが、いいと思う。
分け合う信頼関係があり、未来を一緒に考えられる。これが理想の状態なのではないか。
「営業の魔法」まとめと感想 駆け出しセールスパーソンにオススメな役立つ良書
「営業の魔法」は、セールス超駆け出し時に何回も読んだ本。 どこかのレビューで書いてあったが、まさに営業版「嫌われる勇気」。
入社以来全然売れない営業マンの小笠原は、たまたま喫茶店で商談していた トップセールスマン神谷の営業に衝撃を受ける。 そこで神谷に弟子入り志願し、週に一度営業のレクチャーを受けることに。 レクチャーにて、小笠原は神谷より12個の「魔法」を授けられる。
物語調でスラスラ読めるが、内容は濃い。 実際の営業の商談の場で、本書で語られるコミュニケーションの作法を用いているが、 確かになるほど、と思うことが多々ある。
セールス駆け出し時代は、技術として定着するまで、カバンに入れて読み返す(最後のまとめも振り返りに役立つ)のがオススメ。
以下、要点を内容をまとめる。
1. 相手に考える「間」を与える
- セールスの会話では、相手に考えるための「間」を与える必要がある。
- 「間」によって、相手は会話の間で選択と決断を繰り返すことができる。
- 小さな選択と決断を繰り返すことで、頭が整理され、最終的な結論を導きやすくさせる。
- 人間は考えるときに目線をそらす。目線がそれた時が、相手に「間」与えるタイミング。
- 自分に目線が戻ってきた時が、再び話し始めるタイミング。
2. 営業には「人間力」が必要
- 営業に必要なのは、人としての最低限のマナー。
<嫌われる人> <好かれる人> 横暴な人 ↔︎ 謙虚な人 嘘をつく人 ↔︎ 正直な人 不潔な人 ↔︎ 清潔な人 知ったかぶる人 ↔︎ 感動する人 場の空気を乱す人 ↔︎ バランスの良い人 人の話を遮る人 ↔︎ 順番を守る人 話を横取りする人 ↔︎ 相手に敬意を払う人 話を聞かない人 ↔︎ 聞き上手な人 人を否定ばかりする人 ↔︎ 認めてくれる人 人を不安にさせる人 ↔︎ 安心させてくれる人
「(...中略...)営業はお客様からたくさんのノーをもらわなければいけないのです。ノーは能力の『能』です。そうやって自分の欠点に気づき、学び、成長していくものです。
出典:営業の魔法 この魔法を手にした者は必ず成功する
3. 営業 = 商品を売るのではなく、顧客の課題解決の手伝いをする。
- 人は興味のないことや気づいていないことに関しては拒絶する。
4. 既成概念
- イメージの限界が自分の限界になる。
5. 応酬話法
- 相手の意見を尊重した上で自分の意見を述べる。
- まず相手の話を聞く。
6. 二者択一話法
- 漠然とした質問ではなく、2つ選択肢を提示する。
- 二者択一話法をアポどりに活用し、相手の温度感を確かめる(今週 or 来週、来週の前半or後半)
今週:時間にシビアな人が多い。念入りな準備が必要。
来週の前半:温度感良い。多くの人がここをチョイス。
来週の後半:温度感低い。リマインドが必要。
7. イエス・バット話法
- バット以下を相手に考え・言わせるのが極意。
- まずは相手の意見を肯定 → その意見に対して質問 → 相手が自身で別の結論を導き出す。
8. ノーが出てきたときこそ本音を聞くチャンス
- ノーと言われた場合は、「実際のところは、どうなんでしょう?」で相手の本音を聞く。
- 本音を聞き、課題を把握した後は、その課題解決に全力を注ぐ。
9. 類推話法
- 人はストーリーが大好き。
- 第三者のストーリーであれば、謙虚さを保ちつつ伝えたいことを伝えられる。
10. 推定承諾話法
- 「もし仮に〜」
- その他の話法と組み合わせ用いる
11. 言い切る技術
- クロージングでは、曖昧な言葉を排除する
クロージングの8つの基本 1. あわてない。
2. 余計なことをしゃべらない。
3. 『間』を取る。
4. 悲壮な表情、態度をしない。
5. 物乞い調にならない。
6. 悠然と。
7. ジッと待つ。
8. クロージングを掛けているという意識を強く持つ。
出典:営業の魔法 この魔法を手にした者は必ず成功する
12 ポジティブシンキング
- 明確なビジョンを持ち、それに向かって行動すること。
***
改めて読み返してみると、メンタルに言及した内容も多いが、
・「間」の取り方
・質問を用いるイエスバット話法
・「ノー」が出た後に本音を聞く
など、コミュニケーションの作法が大いに参考になった。
toC向けの営業本だと、筆者の「メンタル論」「根性論」ばかりで辟易としてしまうものが多い。 この本はスラスラ読めるにも関わらず、toCtoB問わない営業の基本を身につけられるので、駆け出しセールスパーソンにオススメ。
「好きなことで生きていく」を考える
「好きなことで生きていく」について考えた。
これまで、お金を稼ぐ基本は「他人の欲望(需要)を満たし(供給)、引き換えとして対価を得る」モデルだったと思う。需要が供給に先立つ。
「好きなことで生きていく」世界では、供給が需要に先立つ。自分の好きなことをコンテンツとして全世界に発信し、そのうちいくつかの人の目に触れ、評価され、お金をもらう、モデルになる。
後者のモデルを成立させるには、インターネットとブロックチェーン(というよりビットコイン)この2つの技術が不可欠となる。
・インターネット
時間的・空間的制約を超えて、世界中の人と繋がられる
時間的・空間的制約を超えて、情報をやりとりできる
・ブロックチェーン(というかビットコイン)
時間的・空間的制約を超えて、価値(お金)をやりとりできる
自分の好きなことで生きていくためには、以下の3つの条件を満たす必要がある。
- 自分の好きなことをコンテンツにする。
- それをメディアにのせ、不特定多数の人に発信する。
- 不特定多数の人から、コンテンツに対する対価を得る。
ちょっと昔まで、2と3の条件をクリアするのが難しかった。けど、インターネットの登場で2の条件が、ブロックチェーン(というかビットコイン)の登場で3の条件が、簡単にクリアできるようになる。したがって今後、自分の好きなことで食える人が増える。
「自分の好きなことで生きている」らしいYoutuberやブロガーも、まだ、123全部の条件を完璧に満たせているわけじゃない。動画再生数や記事閲覧数から生じる広告収入がメインの収入源なので、自分の作るコンテンツにある程度の制限(バズ対策・SEO対策とか?)がかかるし、収入源も広告主or広告プラットフォームに握られている(視聴単価やクリック単価が下がると打撃を受ける)。
でも、ビットコインと、ビットコインを用いてお金をやりとりする仕組みがコンテンツと紐付けば(投げ銭システム)、より純粋な形で自分の好きなことでお金をもらえるようになりそう(ちなみに、現行のフィンテック的なやつでもネットでお金のやりとりができるが、それじゃ不十分。ビットコインとは仕組みが全く違う。フィンテックだとコストがかかりすぎる。らしい。詳しくないので深入りしない。)
単純な例でいうと、自分の趣味をコンテンツにしネットで70億人に配信。そのうち0.0001%の人がコンテンツに1円出してくれれば、それだけ70万。コンテンツはネット上に半永続的に残り投げ銭を呼び続ける(70億人にどうリーチするか。70億人全員がどうネット環境にリーチするか、はまた別問題としてあるが)。 去年くらいからもやっと考えていたことがある程度整理できてスッキリ。
※ 仕事が好きな人、活き活き働いている人も結構多いじゃんという反論がありそうだけど(かくいう自分も仕事は楽しい)、他人の欲望(需要)を満たし(供給)、引き換えとして対価を得る」モデルからは抜け出せてないと思う。
議論の下敷きはこちら。「私の個人主義」の「職業と道楽」より考察。 nskkr.hatenadiary.com
これも面白い。去年の今頃めっちゃ読んでた。この人今何してるのかなー。会ってみたい。 www.huffingtonpost.jp
「道楽と職業」要約と感想 ー 「好きなことで生きていく」を考えるメモ
「道楽と職業」の要約。
漱石は、他人のためにすることを職業、自分ためにすることを道楽、としている。 職業とは、他人のためにすることである。「他人のため」とはすなわち、他人の欲望を満たすことであり、一方、道楽とは、自分のためにすることである。 人は職業を通じて得た対価を用いて、自分の欲望を満たす。自分が食うためには他人のために何かしらをする必要がある、ということだ。
職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。
職業は、基本的に他人のために自分が何かをする、という意味で他人本位である。しかし、中には他人本位では成立しない職業がある。科学者・哲学者・芸術家である。
哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠こもって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。
それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向くらしむきの助けになるだろうと傍はたの者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略さりゃくはない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。 ただ、ここにどうしても他人本位では成立しない職業がある
科学者や哲学者は、「他人のために何かをして、それで対価を得る」という職業の原理ではなく、政府の保護によって食い扶持を得ることで成立している職業である。また芸術家に関しては、自分の内面を表現・表出するのが芸術であるため、芸術家が「他人本位」になった瞬間、それは芸術家ではなくなる。
漱石は、職業の原理を一通り説明した後で、その例外として「科学者」「哲学者」「芸術家」をあげ、実は、自分もまた ”偶然” その例外の一人あることを述べる。
私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支さしつかえないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短かに云えば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌ごきげんを取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。もしこれが天てんから人のためばかりの職業であって、根本的に己を枉まげて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。幸いにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬、(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押して来たのである。いくら考えても偶然の結果である。
以上が、道楽と職業のメインのあらすじである。「職業の原理」が単純明快かつわかりやすく説明されている。
職業とは、他人の欲望を満たすことであり、生きていくには、職業で対価を得ないといけない。 自分の好きなことだけして生きていけるのは、ほんの一握りの例外だけである、ということだ。
さて、ここから本論。昨今流行りな「好きなことを仕事にする」を考えてみたい。
「職業と道楽」の最後で、漱石は自分は "偶然" 自分が職業の原理から外れ、自己本位で生きられる例外の一人であると述べているが、私が思うに、それは決して偶然ではない。
偶然ではなく、漱石は知らず知らずのうちに、自己本位に生きるための、自分の好きなことで食うための、方法を実践していただけである(もちろん漱石の才能が凄まじいというのもあるが、それはさておき)。
自分の好きなことで食うためには、以下の3つの条件を満たす必要がある。
- 自分の好きなことをコンテンツにする。
- それをメディアにのせ、不特定多数の人に発信する。
- 不特定多数の人から、コンテンツに対する対価を得る。
漱石の場合は、
文学作品を執筆し、
(自分の好きなことをコンテンツにする)作品を新聞社や出版社を通じて大衆に発表し、
(メディアを用いて不特定多数の人に発信する)新聞社や出版社から給料をもらっていた。
(不特定多数の人から、コンテンツに対する対価を得る。漱石の場合は、大衆→出版社→漱石、で対価の流れに出版社が間に入っている)
という形で、まさしく自分の好きなことで食う条件を満たしていたのである。
漱石の時代(そしてつい最近の時代まで)、好きなことで生きることが難しかったのは、 特に、2と3の条件を満たすことが難しかったからである。 自分の好きなことを発信する手段が限定的であり、発信できたとしても空間的(そして時間的にも)にも限界があったからである。
しかし、時代は変わった。テクノロジーが、人々に時間的・空間的制限を乗り越える力を与えた。 そして今から、また大きな変化が起きる。
今、自分の好きなことで、生きている人が、少しずつだが社会に登場している。 ブロガー、youtuber、インスタグラマー、中にはコンビニアイスの評論で生活の糧を得ている人もいる。
Youtubeのスクリーンの向こう側には、世界中の何億っていう人がいて、いきなり自分にチャンスがやってきたりします。(HIKAKIN)
このHIKAKINさんの一言は、好きなことで生きていくことための、本質を捉えている。
インターネットの登場が、好きなことで生きていくための2番目の条件を満たすことを可能にした。
インターネットにより、人は、時間的・空間的制約を超えて、世界中の人と繋がれるようになった。情報をやりとりできるようになった。 自分の好きなことを、世界中の70億人に発信できるようになったのである(70億人にどうリーチするか。70奥人全員がどうネット環境にリーチするか、はまた別問題としてあるが)
ただ、「自分の好きなことで生きている」らしいYoutuberやブロガーも、まだ、123全部の条件を完璧に満たせているわけじゃない。動画再生数や記事閲覧数から生じる広告収入がメインの収入源なので、自分の作るコンテンツにある程度の制限(バズ対策・SEO対策とか?)がかかるし、収入源も広告主or広告プラットフォームに握られている(視聴単価やクリック単価が下がると打撃を受ける)。
そこで出てくるのが、ブロックチェーン技術に基づいたビットコインである。
・インターネット
時間的・空間的制約を超えて、世界中の人と繋がられる
時間的・空間的制約を超えて、情報をやりとりできる
・ブロックチェーン(というかビットコイン)
時間的・空間的制約を超えて、価値(お金)をやりとりできる
ビットコインと、ビットコインを用いてお金をやりとりする仕組みがコンテンツと紐付けば(投げ銭システム)、より純粋な形で自分の好きなことでお金をもらえるようになりそう(ちなみに、現行のフィンテック的なやつでもネットでお金のやりとりができるが、それじゃ不十分。ブロックチェーン(ビットコイン)とは仕組みが全く違う。フィンテックだとコストがかかりすぎる。らしい。詳しくないので深入りしない。)
単純な例でいうと、自分の趣味をコンテンツにしネットで70億人に配信。そのうち0.0001%の人がコンテンツに1円出してくれれば、それだけ70万。コンテンツはネット上に半永続的に残り投げ銭を呼び続ける。
そんなこんなで、自分の好きなことで食える人は増えるよね、という話でした。
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