魚を与えるのではなく釣り方を教えよ
「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」
という言葉がある。
この言葉は様々なフィールドで使われるが、途上国支援の分野でもよく聞く。
途上国支援の分野でこの言葉を耳にする際、こんな言葉はクソくらえだといつも思う。
この言葉からは、思い込みと奢りを感じる。
一つめは、「相手は釣り方を知らない」という思い込み。
二つめは、「自分は釣り方を知っている」奢り。
前者の思い込みに関して。
その国や地域のことに一番詳しい人は、無論その国や地域に住んでいる人であって、外様の人間ではない。
現地の人間は、魚の釣り方を知っている。
何故なら彼らは今まで(数は十分ではないかもしれないが)魚を釣って生きてきたはずだからだ。
ただ、釣り方を知っていても、十分に釣ることが出来ない、その土地特有の「何かしらの理由」がある。
それは、「政治」「経済」「外交」「文化」「慣習」「歴史」「地理」「宗教」...、色々あるし、色々の組み合わせである。
彼らは、釣り方を知っている。
ただ、それが何らかの理由で阻害されているだけである。
後者の奢りに関して。
「自分が釣り方を知っている」し「その釣り方が正しい」と思い込んでいる場合は特に厄介。
その土地特有の「何かしらの理由」を無視して、外様の釣り方を教えたところで、それは何の役にも立たない。
役に立たないならまだいいが、「その釣り方が正しい」と思い込んでいる人に、その釣り方を強引に押し付けられるとそれは迷惑である。
1950s~2000年代にわたる途上国(特にアフリカ)への欧米諸国の支援は、まさにそんな思い込みと奢りが感じられる。
「腹が減ったら今ある魚を分けて食って、釣り方は一緒に考えよう」くらいのスタンスが、いいと思う。
分け合う信頼関係があり、未来を一緒に考えられる。これが理想の状態なのではないか。